喉おかしい、マスクします、大使です。
僕がなぜ現地支援に行き続けるのか。
たまには書いてみたいと思います。
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岐阜県に生まれ育ち、災害の少ない県と言われ続けてました。
東日本大震災の時、当時大学生の僕はTVの前で”その光景”を見ているだけ。
まるで映画のワンシーンのようだった。
約5年前、僕はカンボジアへ行った。
約1週間の滞在がものすごく楽しくて、帰国後は完全に抜け殻状態。
それと同じ時間軸で、広島の山が崩れ、泣いていた。
ベッドの上で何もしない毎日。
ふと、
「広島行ってみようか。」
広島に行ったことがなかったので、同時に原爆ドームも見てこよう的な感覚。
いやむしろ、そっちがメインか。
当時何も知らない僕は現地についてすぐ、町をウロウロする。
そこで見た初めての光景。
原形がないくらいに潰れた車。
動くどころか、車であることを忘れてしまう。ただの鉄の塊。
その時はそう思った。
それから毎年イベントのように起こる災害。
毎年災害現場に立ち続けた。
「なぜそこまでして現地へ行くのか。」
という質問は鼓膜が腐るほど聞いた。
僕はいちいちなんて答えているのか、覚えていない。
行くことに特別な意識が向いているわけでもないし、変な正義感もない。
じゃあなぜ行くのか。
自己満足のため。
とでも言っておこうか。
災害が起きなきゃ起きないで幸せだ。
それ以上に素敵なこともない。
でも災害現場へ行くことで、”生きていることに満足”する。
その”満足”が誰かのためになるのであれば、いくらでもその欲求を満たしに行きたい。
特別な意識がないのは、損得で動いてないし、何も見返りを求めていないから。
だって自己満足だし。
あえて言うなら、電車の中で高齢者や体の不自由な人に席を譲る感覚。
そんな日常的に意識している感覚の延長戦だから、意識がないのです。
これは何もすごいことではない。
でも、これだけ行ってこれだけ記事書いてたくさんの経済的負担をして、
「偽善的」
だとか言う人がいても当然だと思う。
僕が現地へ行って発信し続ける理由は。
誰かに認められたいとか認めてほしくてとかそんなんはどうだっていいと思っていることをお忘れなく。
ただ単に、自己満足の範疇でもあるし現地の様子を伝えているだけ、ただ、それだけ。
偽善的や偽善者という言葉は簡単に使うべきではないと思う。
その人自身を否定しているから。
そんな人を見かけると、
「コイツは人生初心者か。」
と鼻で笑ってしまう。
何度も人生を経験している僕は、そんなことどうだってよくなる。
困ってる。
どうすることもできない。
1人で不安。
自分の身でその一つでも当てはまった時、何を望むか。
そう、助け。
助けを求めている人たちに手を差し伸べる。
手を差し伸べる側に地位も学歴も名誉も経済力も関係ない。
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去年、岐阜県が「被災地」と呼ばれた。
自然相手にも関わらず、なぜか悔しかった。
当然駆けつけた。
でも、初めて気が付いた、支援者を遠くから迎え入れる気持ち。
本当に適当な言葉が見つからないほど嬉しかったことを覚えている。
僕みたいに思っている人がたくさんいると思うし、思ってくれてた人もたくさんいただろう。
だからね、僕はどんだけ貧乏舐めまわそうが、人のために動く。
いや、どんな形であれ動いていたい。
なぜ、行くのか。
という問いにはやっぱり正確には答えられない。
脳みそで考えるより体が先に動いちゃう。
そもそも災害支援に
「なぜ」
という言葉は必要ないか。
同じ気持ちの人が同じ場所に集まる。
そんな素敵なこと・場所がこの世にある?
その奇跡を見に行くために、動いています
そしてこれからも...
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今も長野県の支援に来ています。
今回の支援も多くの人から支援金をいただきました。
本当に感謝いたします。
まだまだお気持ちを受け取らせていただき、現地活動に使わせていただこうと思います。
12月には一回目の炊き出し、手ごたえあればこれからも継続していきます。
僕の行動に賛同していただける方だけでいいので、お気持ちお待ちしております。