今年も終わりか~早い!って毎年言ってる、大使です。
2024年も色々ありましたねぇ。
皆様、お疲れさまでした。
年が明けてすぐ、大きな災害が発生しました。
次の日には羽田空港でも。
2024年は一体どうなるのか。
そんな不安を覚えながら新年が開幕しました。
どんな一年だったのか。
何を感じた一年だったのか。
何に対して動いた一年だったのか。
そんな質問をされるのであれば、私は6月までの半年の記憶がほとんどである。
1月後半から6月まで。
ほとんどの休日を能登半島で過ごしました。
災害支援を続けてきましたが、私一人でやりきったわけではありません。
色々な方の協力があって実施することができました。
本当に、ありがとうございました。
今年最後なので、忘れないために、忘れたくないから写真で少しだけ振り返っておく。
見附島と津波で打ち上げられた漁船
震度7の揺れは容赦なく能登半島を襲いました。
揺れに耐えれなかった一枚岩の島は、すっかり瘦せ細ってしまった。
改めて揺れの大きさを実感。
震度7の恐ろしさはこのビルでも。
下敷きになった家では住民が亡くなりました。
まだ人の手が十分に入っていない大谷地区。
笑い声の聞こえていた公園からはそれが消えた。
16時10分までは笑顔があった、そんな場所である。
私はこの場所で笑顔になんてなれなかった。
天皇皇后両陛下も訪問された飯田港。
津波が襲った町。
4.3mもの津波が発災から時間を経たずに襲った。
漁船は海上に転覆したまま。
1月1日がそのまま残っていたのが印象的でした。
自然災害、特に地震は予測ができないため一瞬にして日常を奪う。
昨日までは賑わっていた場所が、次の日にはこの通り。
改めて生きていることの尊さ、自然災害の怖さを思い知らされました。
大事な人との日常が一瞬の揺れによって奪われることを想像すれば、日常をもっと大事に生きようと心から思う。
一方で、
心の支援の大事さも感じた。
大人はもちろん、例外なく子供も居場所を失いました。
遊ぶことが仕事の子供たちは、公園など遊ぶ場所をなくして退屈な毎日を過ごしていた。
僕たちが行ったあげパンの炊き出しは、いつしか子供たちとのワークショップに変わり、笑顔の溢れる空間に変わっていました。
これほどの揚げパンを揚げたのは初めてだったし、私としても本当に貴重な経験になりました。
飛ぶように人々の胃袋に入った揚げパン。
本当に嬉しかった。
誰かの笑顔のために動けるって、これほど幸せなことはない。
本当に幸せで理想的な支援でした。
友人に落語を披露していただいた。
いつもお世話になっていた門前町道下地区の諸岡公民館。
他力ではありますが、落語を披露していただきました。
忙しいのに二つ返事で受けてくれたシンゴ、本当にありがとう。
本当にたくさんの人たちが笑顔になった。
嬉しすぎました。
この後は二人でお酒も飲めてさらに嬉しかったな。
そして、大好きな諸岡公民館の解散。
この場所に通い続けた。
私のようなどこの誰かも分からない人間を快く受け入れてくれました。
災害はネガティブなことだけど、マイナスな事だけではない。
こうしてかけがえなのない出会いがある。
本当に嬉しかった。
本当にありがとうございました。
また来年会いに行きます。
涙も枯れるような災害現場をこの目で見て、思うように進まない復旧復興に心から苛立ち、それでも能登のために心から動けた半年間、自分自身に拍手を送りたいです。
どこの団体にも属さず、ただひたすら自分で動き、色んな人をいろんな形で巻き込んで。
皆さんの行動なくしては私の支援は成立しませんでした。
改めて本当にありがとうございました。
動き続けられたのは、シンプルな考えだけ。
支えを必要としている人たちがいるから。
ただそれだけ。
できる人ができることをできるだけ。
能登半島はまだまだ復興の途中だし、いまだに大きな地震だって続く可能性がある。
それでも前を向いて進むしかない。
心から応援しています。
そして能登を想い続けます。
2024年後半は自分のために時間を使いました。
大好きなモーニング巡りをたくさんしたり、熊本まで友人の結婚式に行ったり。
過ぎゆく時間は早かったけれど、何だかんだ一つ一つの内容は充実していた一年でした。
モーニングマップが2024年に300軒に到達しなかったのが唯一の心残り...
2025年すぐに300軒掲載目指します。
がっちさんとこいちとモーニング合宿が開催できたのも嬉しかったなぁ。
毎年思うけれど、来年こそはネガティブなことが少しでも減りますように。
それでは皆様、今年もあとわずか。
また来年もよろしくどうぞ。